令和6年度企画展示1
「文書館の掘り出しモノ」
令和6年度企画展示2
「北海道・瀬戸内海と小西和」
令和6年度企画展示1「文書館の掘り出しモノ」

開催期間:令和6年6月21日~9月1日
企画展示のチラシ(表) ・
チラシ(裏) はこちらからご覧になれます。
文書館にはいろいろなアーカイブズ記録資料 が収蔵されています。そのなかには、興味深い資料であるにもかかわらず一点モノで、テーマでくくれないなどの理由から展示を企画するのが難しい資料もあります。令和 3 年度に開催の企画展「文書館のイッピン展」では、そうした普段なかなか展示などでご覧いただく機会の少ない文書館の所蔵資料を紹介し、「文書館にこんなモノがあったのか」などといった驚きのなかで、多くの皆様にご来館いただきました。
そこで今回はさらに多種多様なアーカイブズを、文書館の収蔵庫の中から探し出し、ご紹介します。 題して「文書館の掘り出しモノ」。いろいろな観点から掘り出したアーカイブズをご覧いただき、再びの驚きを感じてもらえれば幸いです。
(資料1)
(資料1) 「東京オリンピック聖火リレーのぼり」
香川県立文書館の古文書分野でイチバン 新しい時代からの掘り出しモノ。
新型コロナの影響で1 年延期され、 香川県では 令和3 年 4 月 17 日・ 18 日 に実施された 東京 2020 オリンピック聖火リレー の のぼり 。 世界的イベントと香川県とのかかわりを伝える記録資料として、文書館ではこうした資料も収蔵している。
(資料2)

(資料2) 「香川県西讃岐繁栄見立鏡」
西讃を舞台とした長者番付。東方に三野郡、西方に豊田郡を配し、惣後見には大野原村の平田氏、行司には仁尾村の塩田氏、観音寺町の浮田氏のほか、東方の前頭筆頭には四国新道の建設で活躍し瀬戸大橋や香川用水の提唱者としても知られる大久保甚之丞の名も見える。これが好評だったのか著者は 翌明治 25 年 ( に 、 全県版も 発行。ちょっと下世話、だけど気になるアーカイブズを掘り出し。
(資料3)

(資料3) 「写真 (高商甲子園優勝)」
香川県の高校野球史の一コマを紹介する掘り出しモノ。高松商業学校 現在の高松商業高等学校は、大正 14 年 1925 、第 11 回全国中等野球大会で全国制覇を遂げた。 優勝 2 日後の 8 月 25 日夜 9 時半に海路高松港に選手らが帰着、出迎えの市民が持つ提灯などで港は火の海の様だったという。写真はその際の 歓迎の様子で、 うしろのみこしには「祝高商優勝」と書かれた提灯のほか「北古馬場町」とあり、町ごとに用意したものと思われる。地元校の甲子園優勝に盛り上がる様子がうかがえる。
(資料4)

(資料4) 「井筒屋徳島店の売り出し案内」
井筒屋は引田町現在の東かがわ市 で江戸時代より醤油づくり、大正時代以降には酒や酢の製造も営んだ佐野家の屋号。現在その邸宅は讃州井筒屋敷として観光施設となっている。資料は昭和 10 年( のもので、当時の井筒屋は徳島や大阪にも進出、その徳島店による春の売り出しチラシである。定期購入すれば抽選で大阪歌舞伎座へ招待とあるが、掘 り出しモノポイントはその反対側、左下の女性。「松竹レビュースター 笠置シズ子」は、相生村 現在の東かがわ市 出身の歌手・女優の笠置シヅ子の若き日の姿である。
(資料5)

(資料5) 「書状」
平成23 年 ( に茨城県立歴史館で開催の「頼重と光圀-高松と水戸を結ぶ兄弟の絆-」展のために掘り出された資料。同展では水戸黄門で知られる水戸藩 2 代藩主の徳川光圀と、その兄で高松藩の初代藩主松平頼重を中心に水戸藩と高松藩の関係などを紹介 。本資料は 高松藩 2 代藩主で光圀の子、頼常の書状 として紹介された 。なお光圀のあとは頼重の子綱條が継いでいる。
令和6年度企画展示2「北海道・瀬戸内海と小西 和」

開催期間:令和6年10月29日~12月15日
企画展示のチラシ [PDF 732KB] は、こちらからご覧になれます。
瀬戸内海国立公園は、昭和9年(1934年)3月16日に日本で最初の国立公園の一つとして国の指定を受け、令和6年(2024年)は90年の節目の年を迎えました。
香川県では令和6年度「瀬戸内海国立公園指定90周年記念事業」として様々なイベントを行いました。本展示もその一つであり、かつ「香川県立文書館開館30周年記念事業」としても位置づけて開催しました。
小西和は、現在のさぬき市長尾名出身の元衆議院議員で、瀬戸内海を調査研究し『瀬戸内海論』を著し、瀬戸内海の国立公園指定に尽力した人物です。
小西 和 こにし かなう 明治6(1873)年寒川郡長尾名村(現:さぬき市)で生まれた。幼名は和太郎。15歳で愛媛県伊予尋常中学校(現:松山東高校)に入学。16歳、岡山尋常中学校(現:岡山朝日高校)に転校。18歳、札幌農学校(現:北海道大学)予科入学。21歳、札幌農学校を退学し小西農場に専念。23歳、名前を「和(かなう)」と改名。26歳、小西農場の経営が破綻。上京する。28歳、東京市役所で勤務。30歳、東京朝日新聞社入社。31歳、日露戦争の従軍記者として満州へ渡る。帰国後慰労休暇と特別賞与を受け瀬戸内海の研究に没頭する。38歳『瀬戸内海論』を刊行。39歳から63歳まで衆議院議員に7回当選。6回目の当選期間中の昭和5(1931)年。国立公園法が制定される。昭和9年3月に瀬戸内海が国立公園の第1号として雲仙、霧島とともに指定を受ける。昭和12(1937)年64歳で国会議員を引退。昭和22(1947)年74歳の生涯をとじた。
(資料1)